思考は言語に依存している

人間は言語によって世界を分かつ(分かつことは分かることである)。言語によって“イメージ”
される非言語的なものも言語によって決まる(ex青を決めたのは言語である)
人間は世界を言語に縛り付けており、人間はいかなる手段を使おうと本質的に言語を通して把握し思考している
よって思考は言語に依存している。

言語以前の現実は混沌とした連続体であった

人間はその連続体を言語によって分ける/なおかつ言語は概念である/依存するにも関わらず。
×人間は言語によって自然=感覚的な世界を創造する
−−−−−人間以前にも自然世界はあった。よって人間は言葉により自然を創造するのではない
○人間は言語によって現実世界を分ける/あるいは(人間にとっての)現実世界を創造する
−−−−−<現実>が概念と言語による自然世界の分断で構成されているならば人間は現実世界を創造する
   ⇒ことばは人間のためにあるのであり、(自然)世界のためにあるわけではない。

言語はものの名前ではない

シニフィアンシニフィエも実質ではない。シニフィエスキーマ化された概念である場合、
モノの区切りは
1.プロトタイプの周辺的成員−−−基本カテゴリー(エキスパート/フォーク)の差(ex星と星座、色)
2.言語により異なるもの−−−ex兄弟など
2は純粋に言語の問題であるが、1は認知と言語の問題である。しかし認知は言語によって
成されるため結局は言語の問題となる。

素朴2

そしてシニフィエは概念をあらわすものであり、指示対象をあらわすものではない
という考え方について。んー、、これも、たとえば「犬」のシニフィアンがイヌという
音だったり犬という字の形だったり、これはわかる、その恣意性も。そのシニフィエ
具体的な指示対象ではなく“概念”の「犬」である・・・ことの根拠は、人によって
イメージする犬が異なるから?
でも、コミュニケーションの中で使われる「犬」の場合に一般に想起される犬の
イメージは、通常プロトタイプの「犬」イメージでは。例えば日本人なら柴犬っぽい
立ち耳で茶色っぽいワンコとか(その場合、なんとなくでも一匹の犬がそこに現れているのだから
それを指示対象として捉えられないの?)。欧米人なら垂れ耳のゴールデンレトリバーのような
ワンコかもしれなく、そういう意味で一定でない=指示対象をあらわさないという意味なの?
「海」の場合は、どうか。海をどんな方法でも見たことがないという人の海イメージと
そうでない人の海イメージが異なるからシニフィエが指示対象でないのか?そもそも海を
まーったく知らない人にとって海のシニフィエが存在するのかどうかが謎なんだけども。
シニフィエが存在しないシニフィアンなんてそれこそ意味があるのか。


・・・ん、頭の中に喚起されるイメージは「存在しない」「具体性を欠く」から指示対象
ではないのか。だからシニフィエは概念である、ってことで良いの?


ここは私の疑問とかなり近いかも。
シニフィエ現実界の具体物を直接指示するわけではないので、シニフィエ現実界の具体物を
>結合するのは、非言語意識(直観)の働きなのだろう
そうなのかな。


プロトタイプが一致しないもの、ゲーム理論の家族的類似性か。
どこまでが魚かというのはプロトタイプでいうなら周辺的な成員のことか。ファジーな境界が
サピア=ウォーフの仮説に繋がるのか。でもでも、「虹」が6色であろうと7色であろうと
想起される「虹」のイメージは変わらないのでは。そしてそこでは虹の色分けは(たいした)
問題にならないのでは。虹が6色か7色か、星が星座かただの星か、と言ったところで
“そこにあるもの”は変わらないし、イメージするものに大きな差異が出てくるとも思えない。
雨上がりに空に架かるなんとなく色分けされた半弧(って言い方あるかしらんけど)のもの・・・
というスキーマ的なイメージは共通じゃないの。で、それが意味なんじゃないのか。そもそも
そこにものすごい差異が生じていたらことばの存在理由がなくなってしまうし。
(だからこそ恣意性が問題となってくる、と、これはわかってるんだって)
これ合っているのか?スキーマ的イメージが概念ということは。


これも。
>現実世界における物は、言語以前の段階で、既に(非言語の)意識によって区別されていると思います。
>その区別され切り取られた意識対象に対して、名前を付けたのが言葉ではないかと思います。


>問題となるのは、言語名称目録論が、客観的な事実が先に存在するとして
>そこに、レッテルを貼って区分すれば、客観的な事実・世界が解明できるとする点ではないでしょうか?

客観的な事実と非言語の意識による区別はイコールではないと思う。非言語の意識というのは
曖昧で具体性を欠いた(頭の中の?)何らかである、と。これをことばによって区別すると。
これは言語名称ではないのかな。合っているのかな。


>言語機能のほとんどは、「客観的現実」とは無関係に存在しています。一部の名詞にたまたま
>外界に対応物がある(ように思っている)だけです。

だから、今そこにあるものを言語で指してもなおそのシニフィエは「今そこにある具体的なもの」
自体ではなく、概念である・・・


えー。なんだか釈然としないな。ことばなんて所詮そんなものだということか。
>具体的な「知覚像」は、”言語機能を通してではなく”、意識の働きによって、
>「概念」と結合される

コミュニケーションは言語(機能)のみによって行われるものではないと。うん。
ことばがないと世界を分けられないのに、ことばは所詮概念上のものっていうのも何か
不思議な話だなあ。



「私たちは言語を、考えたこと、思ったこと、して欲しいことを誰かに伝えるための道具、あるいは、
何か難しい問題を解く際に心覚え的に、考えたことを一時的に記録にとどめるために使用する道具に
過ぎないと考えがちである。実際、私たちが言語を使用するのは主としてそのような場合のように見える。
しかし、この発想の背後に、言語にする前にすでに、言語とは独立に、考えや思いなどが存在しているのだ
という、もうひとつの発想があるとすれば---そして、しばしばそのような発想があることが多いのであるが---、
そのような見解は決して自明ではない。それどころか、そこには深刻な問題があるのである。」
言語哲学入門』服部裕幸

これ読んだ。この発想の背後以下の発想に問題があることを理解していれば「ツールとしての言語」は
肯定されていいのか?良くなきゃ困るけど。しかし考えや思いっていうのは何?認識されたもの?
それが感覚(=非言語で曖昧な)ではなく(ことばによって)認識されたものなら確かに問題がある。


うう、ますますわからん

素朴な疑問

言語が変われば世界も変わる。ことばはモノの区切りを表す。
たとえば木や花なら専門家と一般人で区切りが分かれたりするのかもしれないけど、
それは基本カテゴリーの問題では。人間のことばによって世界を分けるという考え方は、
どうにも人間中心主義的な気がしてならない。
追記:人間中心主義的なことには変わりがないけれど、ことばによって人間が
世界を分断するというのはわかるかも。世界がものを分ける必要はないもんなあ。
でも、それはことば「というツールを使って」人間が世界を分けたということで
言語命名論に近くなってくる気がしてきたよ・・・。
いや、世界はあらかじめあっていいのか。それを人間が分けたのか。

無垢のオリジナリティ

与えられたものでできている私にまったくオリジナルに私のものはないのか?という疑問というか
希望というかなんと言うか、私が探しているもの。でもそれは認識できないものだと思う。認識する=
形を私が「何らかのツールを使って」把握している、ということなので。きっときれいなものだ〜何しろ私にも
わからないところにある。わからないものがきれいなものというのはそれが希望だから。でもなんでわからない
ものがきれいなのだと思うのだろうか、これに限らず。 ???