さて、何を研究しようか

この前の日記を踏まえて、共感覚的メタファーを中心に研究したいと思っていたけど
「表現手段としての言語」だから、他の表現手段における共感覚的なもの及び非言語の
(言語的)レトリックを研究するのもいいなと思った。パウル・クレー共感覚の絵のような。
ただ、非言語のレトリックはもう研究としてとっくに確立されているよなあ。象徴学?とか。
隠喩や記号としての絵や音楽ってかそれもう美学分野じゃん。あくまで言語学的(しかしこれは
とりもなおさず記号学的という意味だきっと)な立場から見たいな。非言語も言語の束縛を
受けているものだし。

「芸術と批評」より・・・共感覚的比喩の論文

うう、やっぱり既にあった、立派な論文が。まとめておく。


感覚の言葉構造・・・[存在判断−外界の事象][感じること−外界の感知]を私が統合する
知覚と感覚・・・「〜が見える」:知覚 「〜に見える」:感覚(抽象的なカテゴリー)
■私たちが花を見るとき、嗅覚・視覚・触覚・情緒とさまざまな感覚と意味が私たちにもたらされる


■“感じる”は受容的かつ主観的であり、感覚的言語表現はその「代わり」としてある。
■抽象化とは分化・一般化によるカテゴリー化をいう。
共感覚の移転は未分化(視聴覚)→分化(=抽象化)の経路で逆はない
■私たちはさまざまな数え切れない微妙な感覚を具体的に区別している
→ことばが「代わり」となる(言い切れない)
共感覚的比喩:感覚から外在へ
 隠喩:もともと空間的存在のものを類比させる


この人(も)、感覚は知覚の前に位置付けているということで良いのだよね。それでも
それを「極めてさまざまに微妙にかつ具体的に」区別しており、ことばはそれを「言い切れない」。
ふーむ。

大学院入試のデメリット

わざわざ書き出すまでもないのだけど。またへこむだけだし。
・専門分野外である・・・これは痛いね!
・他大学である・・・情報が入ってこないよ!不利になる大学もあるようだし
・もう10月半ば・・・間に合わないね!
・当てはまる大学院が未だ空中浮遊・・・院試以前の問題!
・興味のある専門分野も空中浮遊・・・そしてまた時間を無駄にする!
・語学ができない・・・もはや問題外!


あはは、ひどいなこれ。
大学院については、筑波大学の言語かなと思っていたけどやっぱりだいぶ違う。それで
今日現代文化・公共政策分野に入ってみたのだけど、ここが近いのかもしれない。言語も
やってるし表象文化の先生もいるし・・・。語学は今「metaphors we live by」を一応
読んでいる。言語学じゃなくても、英語慣れってことで。

言語学っていうか記号学とか文化記号論とか表象文化じゃないの?

と、思えてきた今日このごろ・・・言語学は7割方違う。私は「表現手段としての言語」
「コミュニケーションとしての言語」のうえでのレトリックに興味があるのだし。
言語学っていうと範囲広いから一概に違うとも言い切れないけど、音声・音韻・形態・
生成文法あたりはまったく興味の範囲外で、認知言語学の中の構文スキーマ
対格型や動作主がなんちゃらとかそういうのも全然違う。
ああでも文化記号論、表象文化なんて・・・どっちにしても法律と一切関係ないことと
私が専門分野に関してド素人なことには変わりない。明日は東大の総合・・・文化・・・なんだっけ
の入試説明会、一応行ってみる。友達も行くし遊びついでだい。


今日は図書館に行ったけど、テンパりながら2時間近くPCの前で専門分野と大学院の
探索をしていた。時間の無駄だ、そういうのは夜やればいいのに。「学問から自分の興味を
見つける」のと「自分の興味を学問に当てはめる」のでは違うなあ。統合した「学問から
自分の興味を見つけ、それを再度学問に当てはめる」が理想だったな。

分けること、分かること

分けるとは分けられないものを排除することである。
★In the soul of who is ignorant,there is always room for a great idea.
(byOscar Wilde)


■表現およびコミュニケーションにおいて選択される手段としての記号である言語は、社会制度による
規制受け概念の枠にある既成の言語である。
■コミュニケーションにおいては、ダダのように言語の崩壊したもの(シニフィアンの崩壊、ゆえに
シニフィエの崩壊)は使えない。−−−−−社会による規制/コミュニケーションが取れない/
                    把握できないところに人間の現実世界はない(極論?)
■ゆえに、第三のコノテーションが重要となってくる。


■非言語(色・音・形など)も言語に依存しているが、デノテーションをもたないかとてもゆるい。
ゆえにことばよりも制約から放たれている(ぶん、具体性を欠く)
また、色は視覚・音は聴覚・形は触覚による。あと味覚/嗅覚
■円滑なコミュニケーションのため、通常言葉は他のイメージを喚起しない。感動は感動以上でも
以下でもない(デノテーション/概念の枠から出ない)
■ことばは本質的に感覚を通しているが、レトリックはこれを思い出す/意識的に想起するための
ものである
⇒複数の感覚をもった共感覚的なメタファー(意識的に複数の感覚と非・言語を想起させる)
 イメージメタファー(同じ)
 直喩・隠喩(意識的に二つの類似したものを結びつけるあるいは類似性を作り出す)
これにより、ことば(社会的な強制力によりコミュニケーションを行うことができる)のもつ制約の
中でより豊かな想像世界を目指す。


⇒非言語的/複数の感覚による“イメージ”でデノテーションがゆるくなると個人の想像世界も広がる(たぶん


■ことばは、人間が世界を分けるためにあり(本質)、社会と関わるためにある(既成) 


というわけでレトリック、の中でも共感覚的なメタファー、イメージメタファーを中心に。
あとは直喩。そして他の表現手段(色・形・音)との比較も。
『制限されたことばによるできるだけ制限されない表現』『共通理解/強制力をもちながら個人の想像
世界の中でできるだけ自由に遊ばれることば(と想起されることば以外のもの)』

ことばはできあがると社会を規制する

シニフィアンシニフィエともに変えることはできない。デノテーション(外示的意味、母語
人々に共通に理解される意味)、社会制度による強制
第三のコノテーション・・・[シニフィアンシニフィエ]を[シニフィアン]に・・・デノテーションによる
コノテーションの創造    ⇒レトリックへ