ダダイズム

ことばが具体的なものから逃れるためには、音楽やダンスのように形や規制をなくしてしまえばいい。
というわけでダダイズム。大学4年時に実際に「ダダは何も意味しない」言語の崩壊を聞く。
・・・あー。がっかりだ。がっかり。何言ってるかわからないんだもん。まったく、まさに、意味がない。
ことばは何のためにあるのかって、やはりコミュニケーションあるいはインターアクションを前提と
しているのだと思った。つまり、ことばは他者を前提としている(私という存在が他者を前提とし
形成されていることと同じように)。
だから、まったく意味の崩壊したものはことばじゃない。
現代芸術において音楽や絵はどんどん既成の枠を超えていく、それでも現代文学はやはり文学の形をとり、
(ダダを除けば)ことばの形をとっている。それはそういうこと(もっと詳しくはまた今度・・・  ???
−−−−−−非ことばによる表現は他者を前提としているか?  ???

追記:音楽や絵を初めとした非言語コミュニケーションが、伝統的なそれからだいぶ逸脱している
にも関わらず音楽・絵・あるいは舞踊と私は認識することができる(どこからできなくなるのか ???)
ことに比べ、ことばは「意味」から離れるとことばでなくなる。ことばの規則によってことばは
縛られているし、その規則がコミュニケーションの成立の基礎となっている。