ことばと私の履歴書

小学生のころ:とにかく本の虫だった。だけどこれは実際あまり良くないのだと思う。
赤と青を混ぜて紫を見つけることはできても、紫から赤と青を分析するのはとても難しい。子供に
完成された表現の集合体をたくさん与えると、それに安住して自分の「ことば」を見つけることを怠けてしまう。
怠けるというか、初めからそれを与えられたのだから特に抵抗なくそれを吸収してしまう。そして
私はたくさんの表現を知る。修辞を知り技術を身につけていく。結果、「こぎれいで良く
まとめられた先生に褒められる文章」を書くようになる。このころいくつかお話を書いたものの、
すべていわゆる「パクり」だった。

中学生のころ:やはり小奇麗で薄っぺらい文章を書いていた、と、思う。ただしそれを自覚したかな。

高校生のころ:現代文講義で文化記号論を学ぶ。ことばって何なんだと疑問を持ち始める。
感じたことを誠実に書こうとすると、とにかく書けない。私は何かを感じているはずなのに、
感じれば感じるほどそれは一瞬のうちに爆発したように消えてしまって掴めない。そもそも何も
感じてないのかもしれないとも思った(もともとあまり感情の浮き沈みがないのかも。どうだろう)
並べ立てていた美辞麗句のどこまでが自分のものだったのか、から始まり、ことばに「浮き上がらせる」
までに初めの私の「純粋性」が失われていくのではないか、を通り、私はそもそも与えられたもので
できている、にたどり着く。ことばに対する懐疑心を持つ。

大学生:私は与えられたものでできている。に、言語文化教育の院生から「無垢のオリジナリティ」という
言葉をいただく。小さいころから“真に自分だけのもの”が欲しくて、(絵を選択して)画家になった
ので、私は絵を描いていく。具体的な形をもつものは私のものではない。形をなくしても、色は私の
ものではない。混ぜてもだめ。試行錯誤して、最後に自分の血で形のないものを描く。それでもこの血は私の
ものではない(なぜなら私は与えられたものでできているから)、画家、絶望して死ぬ。みたいな話も
考えてみた。ことばについては「ことばは波紋」にて。