ことばは波紋

私はことばによる表現とは、例えるならば波紋のようなものだと考えている。感情や思考の海に、
表現のきっかけとなる事象、すなわち波紋を発生させるための「石」が投げ落とされ、水面に波紋が
広がっていく。沈んでいく「石」は海を動かすが、水面から見ている私に見えるのは波紋のみである。
主体である私にとって、底の深い感情の海の中、ことばという整理された具体的な形で感情を読み取り、
表すことのできるものは表面部分のみであり、波紋は広がることはあるにすれ、他者に伝えられることは
限られている−−−−−自己をことばの形で表現する

見せたつもりの波紋の広がりが相手には半分も見えていなかったり、歪んで見えたりする。
ことばは色や音、形などに比べて具体性があり、共通に理解しやすいものであると私は考えてきたが、
そのことばを通しても誤解が生じてしまう。やっと読み取ったものをことばに表しても、それを伝え、
相互に理解するに至るまでは、大変に遠く、複雑で困難な道のりがあるように思う。さらに、自分が
最初に漠然と感じた何らかの感情も、相互理解に至るまでにはかなりの部分削ぎ落とされ、何分の一にも
ならないのではないかと不安に感じられる−−−−−コミュニケーションと他者

表現されるまでのプロセスでことばが具体的に客観的になるにつれ、最初に感じた「何か」という
抽象的なものの純粋性がそげ落とされているのではないか。そして、日常の中で表現手法の中でもっとも
「便利」でもっとも使いやすいことばに依存し、ことばが共通理解の中に制限されたものであるということに
対して無自覚になっているのではないか。