ことばとは何か?

ソシュールはことばは思考の定着とための手段、言語外現実を指し示すものという考えを否定している。
言語に先だつ概念はなく、言語が現れる以前は分節されない混沌とした世界があった。
ことばが本質的に分節された世界を名づけたものでなくても、人間がことばで表現とコミュニケーションを
行う場合、ツールであることばは他者との共通理解のためにもっとも具体化された手段であり、既存の
ものであり、与えられたものである。と、思う。つまり、私が問題としているのは、「表現および
コミュニケーションにおけることば」である。他の手段としては絵や音楽、非言語コミュニケーションなど。
既存のことばを使うことを問題にすることとことばの本質を探ることは矛盾しない・・・はず。

ソシュールを読まなくては

少なくとも今まで読んだ認知言語学や意味論の本でソシュールはほとんど触れられていなかった。
パロール、ラング、ランガージュが少し書かれていたくらい。ことばとは何か、を知りたいのなら
認知言語学ではなく言語哲学ということか。レトリック研究を通じてことばとは何かを探りたい・・・
のだ、と、思う。たぶん。

パウル・クレーと共感覚

クレーの絵は絵であり、色であり、詩であり、曲であり、空間をもち、時間が流れている。
クレーの作品は「絵」にとどまらず、作品がもつさまざまな感覚や現象は鑑賞する際に同時に
おしよせ、見ている私にとって整理されない混乱さと同時に解放感のようなものをもたらす。
クレーの作品は重層的でありながら、分析できるわかりやすさをもっているため、見ている私は
混乱してもそれらを認識できる。共感覚のように同時にさまざまなものを連想させ、
「具体的・客観的・制限された」といった単一的な表現とコミュニケーション手法のもつ障害から
開放されながら、なおかつ容易に「認識」することもできる。
クレーの作品が「混乱(=認識できない、無秩序、抽象=純粋)」と
「分析(整理された秩序、認識=表現者と鑑賞者の相互の関係)」を同時にもつことで、
複雑さと容易さ、感じることと考えることといった、相反するものが私の中に同時に存在する。

ことばは波紋

私はことばによる表現とは、例えるならば波紋のようなものだと考えている。感情や思考の海に、
表現のきっかけとなる事象、すなわち波紋を発生させるための「石」が投げ落とされ、水面に波紋が
広がっていく。沈んでいく「石」は海を動かすが、水面から見ている私に見えるのは波紋のみである。
主体である私にとって、底の深い感情の海の中、ことばという整理された具体的な形で感情を読み取り、
表すことのできるものは表面部分のみであり、波紋は広がることはあるにすれ、他者に伝えられることは
限られている−−−−−自己をことばの形で表現する

見せたつもりの波紋の広がりが相手には半分も見えていなかったり、歪んで見えたりする。
ことばは色や音、形などに比べて具体性があり、共通に理解しやすいものであると私は考えてきたが、
そのことばを通しても誤解が生じてしまう。やっと読み取ったものをことばに表しても、それを伝え、
相互に理解するに至るまでは、大変に遠く、複雑で困難な道のりがあるように思う。さらに、自分が
最初に漠然と感じた何らかの感情も、相互理解に至るまでにはかなりの部分削ぎ落とされ、何分の一にも
ならないのではないかと不安に感じられる−−−−−コミュニケーションと他者

表現されるまでのプロセスでことばが具体的に客観的になるにつれ、最初に感じた「何か」という
抽象的なものの純粋性がそげ落とされているのではないか。そして、日常の中で表現手法の中でもっとも
「便利」でもっとも使いやすいことばに依存し、ことばが共通理解の中に制限されたものであるということに
対して無自覚になっているのではないか。

はじまり

たこのーと始めます。過去さまざまな日記をさまざまな場所で書いてきましたが、
この日記は公開しているにも関わらず完全に私の私による私のための書きなぐりブログです。
自分のことを整理するために書いていきます。


現在のたこ状況
法学部4年:
卒業に必要な単位は取得済み。法律はまったくおもしろくなかった
言語学
たまたま取った言語文化教育の授業の飲みで、私の興味があること、ことばについて
言ってみたところ、院生の方に「認知言語学では?」と言われる(今年7月終わりのこと)。
それからちんたら認知言語学−意味論−レトリック と興味を広げてきたものの、私がやりたい分野は
むしろ言語哲学のほうに近いかもしれないと思い始める。恐ろしい。私は何がやりたいのか。私は何か
やりたいのか。
いずれにしても、学部時代とはまったく異なる分野であり、私の中でもまったく
繋がりがないため、前途多難。