現代芸術におけるインターアクション

それにしても、現代芸術とはなんともわかりづらいものだらけだ。何かしらヒント(交通整理みたいな
もの)があればいいのだけど、それすらもなく、見ただけではまったくわからないものもある。
1.表現者は自己表現に終始し、鑑賞者とのインターアクションを放棄している
2.1と同じく、鑑賞者とのインターアクションを拒否している
3.表現者は鑑賞者にインターアクションを試みよ、と訴えかけている
まあどれもあるだろうけど、表現者の多くは3らしい(前述した院生の知り合いの芸術家だか芸術を
勉強している人だかが言っていたらしい)。考えよ、と。でも、あまりにもわからないと、
関係として対等でないと感じてしまう。芸術家とはそんなに偉い存在ですか?私はインターアクションは
対等に行われるべきだと思う、立場は違っても。

自画像におけるインターアクション

自画像というと(私小説もそうか。私音楽っていうのはないか。ないのかな?ないとしたら、何故 ???)
見えない己の姿を何とか描き出そうと画家が苦心した結果であるみたいなことをどこかで聞いた。
画家は自画像において自らとインターアクションを行っているのだろう。さらにそれを通して
画家は鑑賞者ともインターアクションを行う。二重のインターアクションが行われている。
−−−−−自画像は一例。

コミュニケーションもしくはインターアクションによらないことばは存在するか?

今のところ、なし。会話(言語コミュニケーション)は言うまでもなく、独り言にしても私は
私とインターアクションをとっている。つまり、私の中の他者とのコミュニケーションであり
ことばは他者(/社会)と常に向き合うツールである。
「絵や音楽やその他言語によらない表現手段において、インターアクションの関係しないものは
存在するか ???」 −−−−−−ないと思う。主体と対象の間にインターアクションが
成立しないと表現そのものが成立しない。−−−−−私と他者との間ではどうか? ???

??????(ことばと非ことばの決定的な違いは、やはり他手段に比べきわめて容易に共通に理解しやすく
構成されたものであり、それゆえ社会(そして自己)の基礎を成すという点にある)
−−−−−−基礎をなす、共通理解、具体的、の長所と短所

ダダイズム

ことばが具体的なものから逃れるためには、音楽やダンスのように形や規制をなくしてしまえばいい。
というわけでダダイズム。大学4年時に実際に「ダダは何も意味しない」言語の崩壊を聞く。
・・・あー。がっかりだ。がっかり。何言ってるかわからないんだもん。まったく、まさに、意味がない。
ことばは何のためにあるのかって、やはりコミュニケーションあるいはインターアクションを前提と
しているのだと思った。つまり、ことばは他者を前提としている(私という存在が他者を前提とし
形成されていることと同じように)。
だから、まったく意味の崩壊したものはことばじゃない。
現代芸術において音楽や絵はどんどん既成の枠を超えていく、それでも現代文学はやはり文学の形をとり、
(ダダを除けば)ことばの形をとっている。それはそういうこと(もっと詳しくはまた今度・・・  ???
−−−−−−非ことばによる表現は他者を前提としているか?  ???

追記:音楽や絵を初めとした非言語コミュニケーションが、伝統的なそれからだいぶ逸脱している
にも関わらず音楽・絵・あるいは舞踊と私は認識することができる(どこからできなくなるのか ???)
ことに比べ、ことばは「意味」から離れるとことばでなくなる。ことばの規則によってことばは
縛られているし、その規則がコミュニケーションの成立の基礎となっている。

ことばと私の履歴書

小学生のころ:とにかく本の虫だった。だけどこれは実際あまり良くないのだと思う。
赤と青を混ぜて紫を見つけることはできても、紫から赤と青を分析するのはとても難しい。子供に
完成された表現の集合体をたくさん与えると、それに安住して自分の「ことば」を見つけることを怠けてしまう。
怠けるというか、初めからそれを与えられたのだから特に抵抗なくそれを吸収してしまう。そして
私はたくさんの表現を知る。修辞を知り技術を身につけていく。結果、「こぎれいで良く
まとめられた先生に褒められる文章」を書くようになる。このころいくつかお話を書いたものの、
すべていわゆる「パクり」だった。

中学生のころ:やはり小奇麗で薄っぺらい文章を書いていた、と、思う。ただしそれを自覚したかな。

高校生のころ:現代文講義で文化記号論を学ぶ。ことばって何なんだと疑問を持ち始める。
感じたことを誠実に書こうとすると、とにかく書けない。私は何かを感じているはずなのに、
感じれば感じるほどそれは一瞬のうちに爆発したように消えてしまって掴めない。そもそも何も
感じてないのかもしれないとも思った(もともとあまり感情の浮き沈みがないのかも。どうだろう)
並べ立てていた美辞麗句のどこまでが自分のものだったのか、から始まり、ことばに「浮き上がらせる」
までに初めの私の「純粋性」が失われていくのではないか、を通り、私はそもそも与えられたもので
できている、にたどり着く。ことばに対する懐疑心を持つ。

大学生:私は与えられたものでできている。に、言語文化教育の院生から「無垢のオリジナリティ」という
言葉をいただく。小さいころから“真に自分だけのもの”が欲しくて、(絵を選択して)画家になった
ので、私は絵を描いていく。具体的な形をもつものは私のものではない。形をなくしても、色は私の
ものではない。混ぜてもだめ。試行錯誤して、最後に自分の血で形のないものを描く。それでもこの血は私の
ものではない(なぜなら私は与えられたものでできているから)、画家、絶望して死ぬ。みたいな話も
考えてみた。ことばについては「ことばは波紋」にて。 

萩尾望都

残酷な神が支配する」を読んだ。mixiのコミュトップにこれを読んで一週間はどうのこうのと
書かれていたので、最後どうなるのかハラハラしてひたすら死ぬな幸せになってくれと
祈りつつ読む。
・・・んで。
んー。これは、ハッピーエンド・・・、変わっても変わらないような、短針が動きまくって長針が
ようやくコトリと動いたもののそれからも時計は回る・回る・回る・還っていく。といった感じ。
でもあれでいいのだろう、すべてクリアして幸せになりました♪なんてないもんね。萩尾望都
作品は、最後に突然木枯らしがやってきてピュンとさらっていったりもしくはふわふわ不安定に
浮かんでいってしまったりで、ああ掴みそこなったと思うことが多い。オチがないっていうのとは
違うし、それも魅力なんだけど。

勉強不足

基本的に勉強不足・・・認知意味論だけでなくむしろ(一般)言語学、応用言語学
言語哲学の域ならばますますの勉強不足ってかむしろやってないしその辺。
もー今年は無理でしょー。のんびりやりたいよ。
21日には東大の入試説明会だけども、言語情報科学より人文のほうかも。認知言語学から
始めたところが間違っていたのか?でも、認知も他のも全部言語学。とにかく範囲が広くて
うんざり。私は構文や文法には興味がない。